- いまの私たちは『知性で物事を考え、把握しようとする』ことを当然のように受け入れています。
- やはり「わからない」事象が存在し「わからない」と認めることの大切さを感じたのです。
- 実は、数学に取り組む最初もちょうどそんな感じです。
- 演劇界では有名は別役実氏の「身体感覚は近代的知性を越える」との文章にであった時の感動を思い出しました。
- しかし、時代はさらに加速し、いつのまにか観客の身体感覚に、目に見えた衰えを感じられるようになって来てしまった。
- これは、特に理数教育の現場で取り組まねばならない事へのきわめて大きな視点だと思うのです。
- 算数・数学の基礎において、身体感覚まで落とし込む作業・訓練が極めて重要になっているのではないかと思うのです。
いまの私たちは『知性で物事を考え、把握しようとする』ことを当然のように受け入れています。
でも、この世は不思議で溢れています。最近アメリカ軍の情報開示でUFOに関するものがありました。この世のあらゆる事象は近代科学と物理学で説明できると思い込んでいる私たちに「奇妙な気持ち」にさせてくれるのに十分でした。
やはり「わからない」事象が存在し「わからない」と認めることの大切さを感じたのです。
そして「理論的にはわからなくても、有用なものや仕組みが有るのではないか」という事も感じたのです。
実は、数学に取り組む最初もちょうどそんな感じです。
なぜ、このやり方をすると正しい答えにたどり着くかはよくわからなくても、日々慣れていくうちにいつの間にか正しい答えが出せるようになります。
そして後から冷静に考えてみると「なるほど」と納得することがほとんどです。
つまり理論的に「わかる」段階を経て「できる」様になるわけではなく、「できる」様になってから「わかる」ことが多いのではないかという事です。
演劇界では有名は別役実氏の「身体感覚は近代的知性を越える」との文章にであった時の感動を思い出しました。
近代という言葉に象徴される『知性で物事を考え把握しようとする』ときの有用性と危険性への指摘に共感を覚えたのです。