UFO情報開示で改めて実感。身体感覚こそ近代的知性を越える!数学も同じです。

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いまの私たちは『知性で物事を考え、把握しようとする』ことを当然のように受け入れています。

 でも、この世は不思議で溢れています。最近アメリカ軍の情報開示でUFOに関するものがありました。この世のあらゆる事象は近代科学と物理学で説明できると思い込んでいる私たちに「奇妙な気持ち」にさせてくれるのに十分でした。

青い空の下の緑と黒の木

やはり「わからない」事象が存在し「わからない」と認めることの大切さを感じたのです。

そして「理論的にはわからなくても、有用なものや仕組みが有るのではないか」という事も感じたのです。

白いセラミックマグの横にあるシルバーのiPhone6

実は、数学に取り組む最初もちょうどそんな感じです。

なぜ、このやり方をすると正しい答えにたどり着くかはよくわからなくても、日々慣れていくうちにいつの間にか正しい答えが出せるようになります。

 そして後から冷静に考えてみると「なるほど」と納得することがほとんどです。

つまり理論的に「わかる」段階を経て「できる」様になるわけではなく、「できる」様になってから「わかる」ことが多いのではないかという事です。

演劇界では有名は別役実氏の「身体感覚は近代的知性を越える」との文章にであった時の感動を思い出しました。

近代という言葉に象徴される『知性で物事を考え把握しようとする』ときの有用性と危険性への指摘に共感を覚えたのです。

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 かつて古代から連綿として続いていた『ものごとのとらえ方』、例えば妖怪変化などに込められた真実を見る目が、現代から見ると合理的ではない。つまり「不条理なものをとらえようとした人類の悪戦苦闘の歴史的な作品ともいえるものが、近代合理主義からみれば排除すべき存在としてあつかわれてきたのでは無いか?」、社会のなかにある不条理なことがらと、合理的で条理あることがらの二元的対立的に物事をとらえることが「科学的」でありそれが知性であるとの精神を優先しすぎる事に大きな問題があったのではないかとの視点です。

 そして「近代の否定」「近代的個人の否定」という形で“不条理劇”と呼ばれる劇が演じられるようになり合理的ではない不条理性こそが人間の主であり、人間は清濁あわせている存在ではないだろうかとの形の演劇が多く生み出されてきました。

 

しかし、時代はさらに加速し、いつのまにか観客の身体感覚に、目に見えた衰えを感じられるようになって来てしまった。

 21世紀ごろからの犯罪における暴走は、「身体感覚の欠落」があり、頭だけの判断で行動を規定してしまっているのではないかということです。本来ならナイフで相手を刺した場合、本能的に相手の痛みが自分の痛みとして感じなければならないし、そうした感覚なしには実は日常は成立しません。最近の若者の犯罪にはその身体感覚としての反作用がなく、ちょっとでも憎い、排除したいという感情だけで犯罪に走ってしまうのではないか?との指摘でした。

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 本来、近代的知性に基づき合理的に判断し処理し「ある部分についてはどうしようもない不条理である。」として許諾するようなけじめが必要にもかかわらず、あやふやな不条理の認め方をしてしまい、そこには身体感覚そのものがなくなってしまっていることに大きな問題を感じるとのことでした。

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これは、特に理数教育の現場で取り組まねばならない事へのきわめて大きな視点だと思うのです。

 身体感覚としての「わかる」、いつの間にか身体が「正しい答え」を導いてくれる(ソロバンをやった子供たちはその典型)ことが少なくなり、脆弱になっているのではないかという事です。

 算数・数学で躓いている場合のほとんどは、『実は理解していないわけではなく、正しい答えにたどり着く身体感覚が培われていないための躓きではないか。』との思いが強くなってきています。

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 算数・数学の基礎において、身体感覚まで落とし込む作業・訓練が極めて重要になっているのではないかと思うのです。

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