「わかる」ことと身体感覚

いつも「やっぱりそうか」と思い知らされることがあります。生の舞台の鑑賞と、ビデオ記録による鑑賞の落差です。人は身体全体で物事を把握し理解する。

特に日本では「腰腹文化」といわれるように物事を身体の感覚に例えて理解し、困難な課題に対しても腹を割って話し合い、腰を据えて取り組んできました。

生の舞台鑑賞の自分を想像すると次の様になります。役者の発する声を聴き(空気中を伝わる振動、つまり音の波を体全体で受けつつ耳で聞き取り、コトバという記号に変換し脳で再構成する)、合わせて視聴覚で捉えた舞台空間からの情報を再構成し、役者および劇場を共有する観客の呼吸や感情・息遣いを感じ取りつつ、作品世界を理解していく。説明するとちょっと不正確で違和感を覚えますが、要は「人は身体全体で情報を受け取った場合と、視聴覚情報だけを受け取った場合での理解には差がある」ということです。

教科学習においても身体丸ごとの情報を組み立てた方が知識の定着率は高くなるということです。身体表現活動と連動させた方が理解も定着も深まります。(最近はやりのアクティブラーニングなどは正にこのこと)。

IT技術の発達、情報通信社会の一般化のなかで記号としての情報を得る手段の飛躍的発達の反面、身体感覚をもって腑に落ちた理解が弱くなっている現状があります。

例えば数学で「比と割合」で躓いている生徒でも、サッカー少年の場合は、全力で近づいた時のゴールの見え方や、自分に迫ってくるボールが大きく見えてくる様を実感しているので、頭の中でも想像ができ、「比と割合」の説明を意外と簡単に理解できます。その一方、ゲーム機の中での立体空間を遊んだ経験しかない生徒の場合、理屈で説明してもなかなか理解してもらえなかった経験があります。

同じ文章でも、黙読のときと音読・朗読のときには理解度に圧倒的な差が出てきます。ものごとは、身体感覚として丸ごと捉えて理解し「わかる」ことが重要です。

やってみること、表現活動のもつパワーは「わからない」という躓きを突破する可能性に満ちています。

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